モノと心

いつもの散歩から帰ってきて気がついた。。
ゴミを出し忘れていたのだ。
一週間に一度だけ回収の燃せないゴミを出し忘れたのである。
現代では、いらないと思っても何にでもパッケージがあり、それもほとんどが
プラスティックやビニールである。
食料を買い込んで、中身を食べても、おおよその体積は変わらないほどのゴミが残る。
全く、あっという間である。レジ袋一杯のゴミ・・・・こんなのいらない。

私の子供の頃、町内にはセメントで出来た小さなゴミ箱があったのだが、溢れるほどの事はなかった。
豆腐売りからは鍋で買ってたし、納豆もワラで包んだもの、肉や揚げなどは竹の皮で包んでよこしたし
野菜なども新聞紙に包むのが普通であった。
それらのゴミは風呂のたき付けに使えるモノばかりで、結局、ほとんどゴミがなかったのだ。
物心付くか付かない頃、ウチにはかまどがあり、井戸水を手押しポンプで汲んでいた。
夏は冷たく、冬は暖かい水が何時でもあった。まだ、水道もガスもなかったのだ。

考えてみると、当時の生活は、今よりずっとメリハリのある、季節感のあるものだった。
暮れの湯気だらけの餅つきの光景や、井戸にスイカを釣るし冷やす光景、正月の全てがのんびりした空気。
春、近所の草ぼうぼうのはらっぱで夢中になって暗くなるまで、遊んでいたことなど、今ではあり得ない
ようなことばかりではないか。

便利というのは、怠惰を生み出すのかな。普通に生活してさえいれば運動不足になんてならなかった時代。
今は、稼いだ金をわざわざ使ってフィットネスクラブなどで汗を流す??  
嘆いても仕方がないのだが、どうしても世界はどうなっていくのか 希望を持つのが難しいことだけは
確かなようである。

ものの有り余る現代、せっかく家賃を払って、生活空間より、モノ置き空間にしてる人も多いはずである。
10万円の家賃のうち、何万円がさして必要でもないモノの保存の為に使われているか考えてみたことがあるだろうか。
モノの多くは、生活に必要と言うより、心の隙間を埋めようとして買い込んでいるって事はないだろうか。
そして、それが今度は生活空間を狭めて、ストレスになってしまうという矛盾に気づかないだろうか。

ゴミというのは、汚物のことではない。ただ、必要でないものなのだ。
ピカピカなゴミ、新品のゴミ・・・・モノを作り出し、そのままゴミにしていき、一年で東京ドーム140杯分も
でるのだ。東京ドームに行ったことのある人なら判ると思うが、大きいよ。 二の句が出なくなる思いである。

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