葉っぱの器   

2005.03.16 有田武生

私は1988年にインドのマトゥーラという街を訪れた事がある。
ガンジスの支流、ヤムナー河のほとりにある静かな町である。いかにも愛と音楽の神クリシュナの聖地だけあって、その穏やかさを気に入ってしまい川沿いのアゴラホテルを宿として約10日間ほど滞在したのである。

この町ではいろいろと感じさせられ、今でも思い出深い場所である。

例えば、ホテル付きの大工の道具とその仕事ぶりである。
中庭に日向ぼっこをする風情で座り込み鋸で板を縦に切っている。
私は、ことわって側に座りその様子を見ていたのだが、ちょっと気になり、その道具を見せて貰って驚いた。
こんな道具、日本では使い物にならないと捨てられるだろうな。
鋸もノミも、ひどいなまくらである。「こんなもので仕事してちゃ日が暮れちまう」と日本の職人なら言いそうである。
だが、彼はなんのためらいもなく硬いマホガニーのような材を切っているのである。まったく急がず、たんたんと仕事を進め、結局はちゃんと切れてしまった。急がない、焦らないというのはなんと風格を増すものかと、感じ入ってしまった。

また、繁華街に出ると大きな黒御影石(これはすごいモノで、日本では高級墓石に使うレベルの石である。それが長年の人通りに角が丸くなっていて、そこいらの石彫刻より素晴らしい)で敷き詰められた道がワラを敷いたようになっている。そして、それが人混みに巻き上げられ逆光に輝く様はエキゾチックを絵に描いたようであるのだが、それらは実はほとんど水牛の糞が乾いたものなのだ。現地にしばらく居ると、それを汚いなどとは思わなくなる。多分、何千年も続いている営みの一つなのだ。ときどき、水牛が糞をしたそばから、それを素手でバケツに入れながら追っかけている子供が居たりする。乾かして燃料にするためである。

道ばたでは、日本では見かけないお菓子? パンに甘いシロップを浸みさせて唐辛子の粉やその他を降りかけたようなモノを売っていたので、買って食べてみた。なかなかおいしかった。しかし、2度目に子供のためにと唐辛子の粉などをかけないで貰ったモノは、なにか間の抜けた、あんまりおいしくないモノであった。これは失敗だった。
実は、言いたかったことはこの味のことではない。買ったときに渡された葉っぱで作った器の事である。日本で言うと柏のような葉っぱを数枚、器用に串で止めて器にしてある。みんな、これを食べた後、これらの器を無造作にその辺りの溝に投げ捨てている。例えば、東京でスチロールの器をこんな具合いにやると大ひんしゅくものだろう。しかし、ここではちがうのだ。
町には、うろついている豚がいて、それらを漁って食べているのである。
胴体の下半分は、ドブに濡れて黒くなっており、ツートンカラーの豚になっている。結局、それらの葉っぱの器はゴミではなくなっているのだ。

道ばたで、布を敷きひげ剃りを生業にしている男を数時間眺めたことがある。彼は、使い古された蓋の出来るブリキ缶の水だけで、仕事をしているのだ。ピチャピチャとヒゲを濡らし、雑談しながら器用にカミソリを扱い、最後に布で拭いてお終いである。なんという省エネであろう。石鹸も使わず、だから洗う必要もない。多分、片手の平に乗るくらいの量の水でやってのけるのである。

すごく、豊かな景色という環境の中で、日本人から見れば粗末で貧しく見えるかも知れない人達の、無駄のない生き方を見て、当時、価値観が大きく揺さぶられたモノだ。そして、今なお、いや、現代の色々な事例を見聞きする度に、なおさら、その感を大きくしている。


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