電気についての雑感 

電気は今や後に引けないほど必要なのは確かだ。
炭酸ガスを増やしてしまう化石燃料での発電。
空恐ろしい危険を含んだ原子力発電。
他にも、沢山方法はあるのに、国が本気で開発をしてない分、進みがのろい。
原子力はずいぶん誰かが儲かるもののようだ。
トヨタは環境に最も害の少ない車で世界一の売り上げを上げているというのに
まだ、環境対策が大きなニーズだと気づかぬ前世紀的価値観が根深いようだ。

放射能の汚染やその危険は、全人類のあっけらかんとした自然への信頼を大きく傷つけ、その結果、人間の便利さへの狂気的欲望への歯止めを奪ってしまったように思える。

日常生活を覆っている便利さへの依存。
原初的生活する為のノウハウの喪失。
絶望はいとも簡単に手に入れる事は出来る。
そのせいで希望を信じない虚無感が世界にはびこる結果となっているかもしれない。

今、考えられる未来への方策は、科学でもなければ政治家への委任でもない。
人類(俺たちみんな)の意識改革。

出来る事を考える。いろいろとやれることはある。
政治や科学に出来ない事。それは生活の仕方。
敵を作っても、何も解決しない。それは戦争も同じだ。
誰のせいにしても助からない。
助けてくれという相手なんかいない。自分たちが問題なんだろう。

自分で生きる為の方策を考えるしかないのじゃないかな。

なんで、金を払ってまでみすみすゴミを持たされるのか。
なんで、きれいなピカピカしたものへの美意識を持たされているのか。
なんで、なんでも大きな事をやりたがるのか。
なんで、こんなに税金を無駄遣いされるのか。
なんで、こんなに不必要な物を買うのか。
人のことを言っているのではない、これは私の問題だ。
嫌な問題だ。

化石燃料と核、どちらも地下深く眠っていた人類への欲望の罠だったのかもしれない。
そのエネルギーが、産業革命につながり、財閥を作り人類を変えてしまった。
人類が生き残る為には、もはや便利さでフヤけきった生活からの決別しか手はないのだろう。

今、拝金主義が幅を利かせているけれど、金がいくらあっても個人個人の地道な生活努力なしには
この地球は人類生存を許さぬ環境に変わって行くだろう。
便利な特効薬など存在しない。金はなんの役にもたたない幻。
いい加減、便利依存を抜けなくてはおしまいだ。

「六ヶ所ラプソディー」も「不都合な真実」も観た。
オレにとって目新しい事は、ほとんどなかったが、多くの人がこういう問題を認識できるという点は
一つの小さな希望とは思う。
1991年六ヶ所村での、いのちの祭りで感じた危惧はそのまま今に続いている。
「不都合な真実」の観客の少なさも残念だ。 

2007.2.12 有田


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