20日読売新聞都民版3面
「枝川公一の東京ストーリー」

 中学のときは、いつも頭痛がしていた。高校では、受験のためのクラス分けに翻弄された。大学に入り、20歳になるころには、魔法でもないかぎり俺たちに年金はまわってこないな、と確信した。
 頭に来る。みんなどっかで嫌な感じがしていた。だから、若者たちは学生運動へ行き、ヒッピーに憧れた。有田武生さん(59)は、ロックに出会い、電気ギターに没入し、いまも弾きつづける。団塊真っただ中の世代である。30代のころ、すでに音楽をやめた仲間から「まだやってるのか」とあきれられた。40代になると、逆に「いいなqあー、おまえは」とうらやましがられた。50代のいまは、いったい何と?
 もうなにも。
 有田さんは、ロックバンド「ヤーズ」のギタリストである。力強く重い音が。ロックに年齢はないことを告げる。他のふたりのメンバーは、50歳前後。年に数回はライブをする。好きなのは野外ステージ。「圧迫感がないから」
 ロックは仕事ではない。趣味でもない。中毒である。勝手に中毒をやめるわけにはいかないのである。
 「20代のころは、世界が即変わると思った。魂が見えると信じた。魂を表現するのがロックだった。フォークは語りかけたけれど、ぼくらは叫んだ。生命を讃える叫びだった」しかし、世界は変わらなかった。あれは予告編か。それなら、生きつづけて本編の終わりまで見届けようじゃないか。その気概を支えるのがロックーー。
 東京造形大で彫刻を学んだ有田さんは、40代のころ。彫刻科として活躍した。住宅団地や公共空地のモニュメントの制作をして、大きな収入を得た。仕事の受け皿にする会社を設立し、自ら社長になった。
  ちょうど同じころ、まだ出始めのパソコンに遭遇する。画像処理が簡単にできる。夢中になる。時間ばかりか、彫刻の稼ぎを注ぎ込む。生活費に食い込むほどに。バブルの崩壊も重なり、一時の成功に終わる。
 「結局、音楽が邪魔した。生活のために必死にがんばる気持ちになれなかった」
 もっとも、パソコンに狂ったおかげで、いまはウェブデザイナーとして、ともかく生計がなりたつ。
 「絵に描いたような」郊外都市、国立市に住んで30年。有田さんの一日は、6時ごろにはじまることも、9時の場合も。目覚めた時次第。
 パソコンに向かい30分ほど、ホームページ管理の作業をする。やがて、傍らにいつも置いてあるギターを取り上げ、しばらく弾く。エレキの音が、遠慮がちに独り暮らしのアパートに響く。やがて仕事に戻る。この繰り返し。
 酒もタバコもほとんど縁がない。知己にもあまり会わない。独りの時間を楽しむ。週に一日だけ遠出をし、隣県に暮らすガールフレンドに会いにいく。うれしい。そこなら、大音響でギターが弾け、ピアノを叩けるから。
 いまは、団塊の定年時代と言う。有田さんに定年はない。淡々と仕事をし、ギターの弦をまさぐる日々がつづく。「団塊のためのギター教室でもしようか」と言うが、どこまで本気か。
 (ノンフィクション作家)

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